識字率

識字率

私の若い頃は、まだまだ文盲の方がいました。

識字率は物心付いた時からすでに99%とされていましたので、「何らかの理由」により文盲であったのだろうと思われます。

知り合いのお母様が字が読めず書けずでいらっしゃいました。

ご主人と早くに離婚し、その後は二人の子どもを抱え、必死で朝から晩まで働いていらっしゃいました。

しかし、全くの文盲でいらっしゃる。

家が貧しすぎて教育を受けれなかったのでしょう。

その方がより良い生活のためにと、創価学会に入られました。

私は創価学会を否定も肯定もしていない立場だということはご理解下さい。

少ない生活費の中から聖教新聞の購読料を捻出し、それなりの見栄えのご本尊さんを家に据えておられました。

爪に火をともすような思いで捻出されたことでしょう。

その聖教新聞を読みたいがために、その方は字を習い始めます。

離れて暮らす子供に、覚えたての字で手紙を書きます。

「サミシテス カエテキテクタサイ(寂しいです。帰ってきてください)」

その言葉を何行も書いたハガキ。

それをその知り合いに見せられ、いまだに文盲の人がいるということに衝撃を受けましたが、同時に「こんなに想いがある手紙を見たのは初めてだ。。。」と、それもまたショックでした。

先ほど創価学会を否定もしなければ肯定もしない立場だとお話ししました。

誰が何を信じようと、私にはどうでもいいこと。

私に対し行き過ぎた勧誘を行ったり、啓蒙啓発を与えようなどと思ってくれなければ、それで結構なのです。

もしそういう近づき方をしてくるならば、私は戦いますけど、そうでない限り関せずです。

どうでもいいことなのですが、ただそれに救われている人がいる事実。 

教育を受けれなかった家庭環境があったにしろ、そのとの努力をせずに来た人が、聖教新聞を読みたい一心で学ぶのですから。

そして貧しくとも死に際し多くの人に見送られ、葬式をあげられるという安心感は何にも変えられないものだと思うのです。

葬式の時に香典からなにからなにまで創価学会が奪っていくと言われていましたが、相互扶助の精神が根本にあるのでしょうから、お金がなくとも葬式があげられるという利点があれば、そこで生まれた余剰は学会に寄与するべきものとなるのでしょう。

そこに対しておかしさを、私自身傍で見て感じては居ません。

世界に目を向けると、あのアメリカですら海兵隊員の文盲率は20%。。。

発展途上国に至っては、更に低く女男に比率の違いまであります。

食べるに困る状況下で読み書きを優先することはかないませんが、読み書きは広い世界への第一歩であると思っています。

貧困からの脱出は、読み書きからではないかと。

それでないといつまで経っても状況の画期的な変化などありえないと思うのです。

どんな国の子も、学びたい気持ちに差はないはず。。。

24時間テレビに思う

24時間テレビの出演者にギャラが発生していることについて、かなりの年月物議を醸しています。

私としてはこの件に関して、あまりピンと来ないわけです。

そのそのボランティアとはなんぞや、チャリティとはなんぞや、この線引きというのが難しいと感じているのです。

ボランティアの大前提に、自発性、無償性、利他性、先駆性の4つを軸とするというものがあります。

これであれば金銭を受け取ることはオカシな話になりますね。

しかしこのなかの無償性の部分も、実費の弁済や一定の謝礼をその範疇としないという柔軟な姿勢も受け入れられてきているのが現状です。

もともとボランティアの語源はラテン語のVoloウォロであり、これは志願兵という意味です。

ボランティアもその語義そのままに志願兵=自発的となっています。

ではチャリティーとは。。。なのですが、慈愛、博愛、同胞愛、慈善をテーマとし、それによって行われる公益性の高い活動を意味とします。

社会に対する貢献全般をチャリティーであるとしています。

チャリティーにかかる経費というものは、寄付や寄進で賄っています。

上記を定義とするならば、24時間テレビはチャリティー番組であります。

たしかそのように謳ってもいたように思います。

であれば、社会に対して問題を投げかけ、みなが考える機会を与えるということが第一の目的、そしてそれによってみなが寄付であったり社会貢献をするボランティアをしやすい場を与えるというのがテーマであるとも言えます。

普段したいと思ってはいても、なかなか出来ずに毎日に流されているのが一般生活者です。

このようなお祭り事があると、それを目指して一円玉を集めておいたり、普段考えない「皆が住みよい社会の実現って。。。」を考えるのです。

それをノーギャラのボランティアだけで構成しようとした場合、これだけの注目をあびることが出来たでしょうか。

娯楽性も持たさねば、人は見ませんよ、そこまで崇高ではないのです。

24時間テレビはお金を集めるためのチャリティーを開催してるのです。

そこに趣旨を理解したゲストが来ることで、その知名度を利用し寄付を集めるのです。

ギャラが発生したとて不自然はありませんし、趣旨への賛同があれば出演者も寄付をしているでしょう。

そこで発生する経費は寄付金の中から捻出したとしてもおかしくありません。

個人やボランティア団体が成し得なほどの寄付金というのは、それでも収めることが出来ているのです。

ただし、24時間テレビも34年目ですか。

ここで今一度有り様というものを公示する必要があるのではないかと思います。

ボランティアとチャリティー、またその両方、この認識というものも浸透していなかった頃からの出発で、そのままに走ってきましたよね。

また内容に対してお涙頂戴感の演出の中に障害者を巻き込みすぎているとの意見も目立ってきました。

これだけのお金を扱う番組なのですから、方針に対する意見を広く募ることも必要ですし、またそれを知らしめす必要もありましょう。

公共性が最も高いものとなった事に伴う義務は発生します。

このまま消化不良を抱えたままでいくよりも、番組自体が考えるボランティアとチャリティーの捉え方もふくめ、練り直しおよびその公表の時期に来ているとは思います。